そんな言葉からはじまったのは、「西條そば甲」を営む荻原甲慎さんへのインタビュー。
14年前に、愛媛県西条市の水と出会って蕎麦屋を志した荻原さんのつくる料理は、いわゆる「王道」ばかりではない。地元の食材をふんだんに使用し主役に据えており、「地元料理」と呼ぶ方がふさわしい。
そんな「地元」に寄り添う蕎麦づくりに取り組む荻原さんの蕎麦は、今年ミシュランガイドにも掲載されるほどになったが、そこに至るまでには家族との衝突や街からの孤立、そんな苦難の過去があった。
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「売る人」から「つくる人」へ。31歳の決断
有名俳優を使ったCMで一世を風靡した、日本では知らない人のいないジーンズブランド。それが、30代までの荻原さんが選んだ「働き方」だった。
自分の担当した商品が、年間に何億もの売上をあげていく。営業として活躍する日々は充実していたはずだったが、徐々にどこか違和感を覚えるようになっていた。
そんな悩みの中にあったとき、妻の実家である西条市でこの地の「水」と出会った荻原さんは、ある決断をする。
それは、「日本一の水」である西条市で「日本一の蕎麦屋」になること。
昔から水がいい街に人は集まる、と語る荻原さん。彼に言わせると日本屈指の水どころでありながら、まだまだ知名度の低い西条は「最後の秘境」であり、そんな西条の街が持つ水の魅力を伝えるために最適なのが「蕎麦」だと直感したのが、「蕎麦屋」を始めた動機だった。
そう決意してサラリーマンを辞めた荻原さんは「日本一の蕎麦技術」を身につけるため、当時「蕎麦打ちの神」が出した山梨の「翁」という店へ修行に入った。
だが、その生活が荻原さんと家族にとっての苦難の始まりだった。
妻との衝突を乗り越えて届いた「職人」の道
1年間と期間を決めて、山梨へと蕎麦打ちの修行に出た荻原さん。
1年という期限には理由がある。彼には当時1歳半の子どもがいた。そんな中貯金を切り崩して暮らしていけるのは1年が限度。その間に「蕎麦職人」としてなんとしても独り立ちできる技術を身につけること、それが自身に課したハードルだった。
もちろんそれまでの営業職とはまったく畑違いの世界。まさに背水の陣で臨んだ修行生活。並大抵の厳しさではない。毎朝3時に起きて4時から仕込み、昼の3時に奥さんと子守のバトンタッチをして……という日々。
そんな修行の始まりから3ヶ月くらいたったとき、荻原さんの家庭に事件が起きる。
その後、どうにか関係を修復しまた家族で過ごす日々を取り戻した荻原さんは、1年間の修業を終え、念願だった西条市でのお店をオープンすることになる。
「日本一の水」と「日本一の技術」で「日本一の蕎麦」をつくる、その夢に一歩近づいたように見えた瞬間だった。
だが、そこで待ち受けていたのはさらなる試練の日々だった。
「もう蕎麦は食べたくない」と泣かれた夜
ついに自分の蕎麦屋をオープンするべく西条に飛び込んだ荻原さんを待ち受けていたのは、「よそもの」ならではの壁だった。
結局、奥さんの父親に名義を貸してもらうことで店舗を借りることができたが、「金も人脈もノウハウもない」蕎麦職人の挑戦は、出だしから「誰かの支え」なしには成り立たなかったのだ。
だが、荻原さんがそのことに本当に気づくまでにはもう少し時間が必要だった。
「この地に本格的な蕎麦を提案する」そんな夢に対し、地元からの評価は「よそものが何か言ってる」というものでしかない。荻原さんは街で受けた数々の反応からそのことを痛感していく。
ただ、それでも荻原さんが「ラッキーだった」と語るのにはわけがある。それは、周りに「あそこがいかんかったぞ」と都度教えてくれる人たちがいたこと。
そして、もうひとつは奥さんのスタンスが支える方向に変わってきたこと。
街の洗礼から学び、家族が味方になった。荻原さんが本当の意味で「西条の蕎麦屋」になる第一歩を踏み出した瞬間だった。
「勘違い」を越えて気づいた「街とのかかわり方」
「街の人が求めるものをつくろう」――そう改めて決意した荻原さん。それまでの自分には良くも悪くも「勘違い」があったと語る。
1日の来店客が2名という日もあったとき、「西條そばとはなんぞや」、「誰のために、何のために仕事しているのか」ということに立ち返った結果、自分のスタイルを求めるのではなく、「お客さんのライフスタイルの中に僕を入れさせてください」という姿勢になることができたのだという。
元々は「ものづくりをしたい」という若さゆえの勘違いが原動力だった。しかし、地域に入っていくときに必要なのは一度自分の勘違いを捨てて、街に寄り添うこと。それに気づくことができた荻原さんの蕎麦づくりはだんだんと変わっていく。
自分の押しつけから、お客さんの仲間に「入れてもらう」という感覚。その姿勢を荻原さんは「やりたいことを広げるのではなく『掘り下げる』仕事」だと表現する。西条のいい「水」を活かして地元ならではのもの、「唯一のものをつくる」こと。
そんな姿勢がお客さんに伝わり、現在では「西條そば甲」は飲食店にとどまらず、地域にとって「蕎麦の文化」に触れる接点としての存在にもなりつつある。
西条の名産である「海苔」を散らしたり、「絹かわなす」を使ったり。土地というフィルターを通して、そばを伝えていく。ただし王道ではなく、その土地に合った商売の仕方に重きを置いて。
今の荻原さんに間違った「勘違い」はない。だからこそ、「日本一の蕎麦屋になる」という原動力になった「勘違い」を失わずにいることができているのだ。
そんな日々を経て、今荻原さんが見ているものは何なのだろうか。
一人称ではなく二人称で生きる、ということ
冒頭で触れた通り、蕎麦好きは人口の5%と言われ、圧倒的にうどん好きな愛媛の人々。そんな土地で蕎麦を打ち続ける荻原さんの目標は「蕎麦を文化にすること」。西条での日々はそのために一番必要なことを教えてくれたのだという。
変わらないこととして挙げた「蕎麦」そして「水」への想いは、荻原さんの原動力。一方で「変わっていくこと」は西条に来たからこそ得られたことだ。
自分はこうしたいからではなく、「何が必要ですか?」という姿勢で仕事をしていくこと。それが最終的に「変わらないこと」を成就させてくれる。
西条は今、若い移住者が増えている街の一つとして知られる。14年前に移住した先達として、荻原さんは移住して自分の働き方・生き方をつくっていくために大切な考え方を、最後に語ってくれた。
勘違いから始まり、「周りに生かされている」自分に気づいたからこそたどり着いた荻原さんの仕事観は、どこまでも「相手ありき」であることを大切にしていた。
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